・・・というのが表向きの内容だろう。
しかし実際には、ゆとり教育の推進者であった元文部官僚の寺脇研が、自らの失敗を認められず、欺瞞に満ち溢れた言い訳と負け犬の遠吠えを繰り返す内容になっている。
ゆとり教育は非難されているが、自分は「悪くないんだ」「間違ってないんだ」「失敗してはいないんだ」といった内容が延々と続き、それだけで一冊が終わる印象だ。
本書で書かれている内容はあくまで言い訳なので真っ当な論拠はほとんどといって良いほど存在しない。それぞれの段においてころころと足場を変えて、思いつきで論を展開しているように感じる。
その中でも本書全体にわたる問題点として特に目に付いたものを挙げてみる。
◆ゆとり教育自体の定義をあいまいなまま放置している。
ゆとり教育がいつから始まったのか、ゆとり世代といわれる世代はどの世代からどの世代までなのかといった基本的な定義づけをあいまいなままにしている。
報道などでもこれらはあいまいなままにされることが多いが、ゆとり教育を正面から見据えるには明確な定義をしておく必要があるはずだ。
しかし実際にはあえてそれを行わずに自らの論に都合が良いように状況に応じて使い分け、ごまかしの材料にしてしまっている。
◆ゆとり教育が成功したのかどうかを明記していない。
現状において一般的には、理念はともかくとしてゆとり教育という施策は失敗もしくは修正が必要なものであったと目されている。しかし本書において著者自信が現状でのゆとり教育が成功を収めているのかいないのか明らかにしていない。
そのため失敗していないのにもかかわらず『マスコミのゆがんだ報道のせいで』とか『当時の大臣や他の官僚のせいで』といった悪者探しが随所に見られるという矛盾に満ちた内容になってしまっている。
◆論に至らないような詭弁が多い。
前記の2点もそうなのだが、意識してミスリードを誘おうとしているのか、本当にそう思い込んでいるのかはわからないが、詭弁が随所に見られる。
代表的なのが『全国PTA総会でゆとり教育は支持されたので、子供を持つ親達はゆとり教育に賛成だった』というものだ。
PTAの会長に就きしかもPTA全国大会にまで赴くような暇がある親と、仕事に追われ家事に追われている一般の親の意見が同じといえるだろうか。選挙という形で国民の信任を得た国会議員の意見ですら世論調査と食い違うのに、明確な選出が行われたかどうかすら定かでないPTA会長の意見を一般の親の意見の集約と見るのは乱暴すぎるだろう。
以上の通り問題の多い本書だが、あえて価値を見出すとすれば『官僚的な思考』とはどういったものかを知ることが出来ることだろう。
自らだけが正しいと信じる、独善的な思考。
自らの過ちを認めることが出来ず、自己保身・自己正当化のための言い訳を繰り返す様。
これらを恥ずかしげも無くさらし出せる、厚顔無恥で浮世離れした感覚。
著者自らも他の官僚に対する批判を述べているが、傍から見ると同じ穴のムジナに過ぎない。
またそのことに気づいていないのがより官僚的だといえるだろう。
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